土曜日は新宿ロフトにいく。可能な限り記憶していることと、考えたことを、だらだら記述しておく。すべて脳内増幅されており、なので断定調になる。

22時の開場とともについたわけだが、ちょっと入場を待ってるときに、スタッフに「最初は誰?」とかきいてしまう。「DJさんですね」と軽くいなされ、急に恥ずかしくなる。なにをがっついてるんだろう、と見透かされたような気持ちになる。だって自分しか並んでないんだもの。余裕ってもんがないな、自分。と反省させられる。

DJがフロアに影響力を行使できないような微妙な緊張感が漂うまま、23時ごろステージを覆っていた映像を投射していたスクリーンが上がり始める。
今日の目当ては、ヴァーミリオン・サンズなので、トリかという意識があり、それまでアルコールを舐めながら、待つつもりだった。

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スクリーンの奥にいたのは、秋田昌美メルツバウ)だった。なるほど。今夜の閾値を設定したわけだ。たちまち、椅子から離れ、ステージの前にいっていた。
メルツバウを観るのはそれこそ、20年ぶりくらいになる。当時は、まだシンプルなアナログなデバイスによる、刺すようなパフォーマンスだった。今夜のように、2台のPowerBookを使った、音の壁による面での圧迫のようなステージは初めて。
ハーシュノイズは、仮定に基づく、音楽の別な解。メロディやリズムは脳のある受容器を刺激することで、ある快楽な状態を作りだす。ノイズは、それとは別な受容器を刺激する方法であり、メロディやリズムを持つ音楽とそれは等価な状態をもたらすことができるとする仮定に基づいた結論だ。
しかし、今夜のメルツバウに感じたものは、もっと根源的な、細胞レベルで感じられる肉体的なものだった。そうでない音楽でも、極端に大きな出力の再生装置でも得られることができるが(ダブのサウンドシステムとか。高倍率の顕微鏡で拡大したようなものを想像してみるとわかるだろうか)、ハーシュノイズはもっと効率的にそれを得ることができる、という発見されたもの、というか。
しかし間違えてはならないのは、それは巨大なものに対する服従ではないということ。肉体がいま感じている興奮を、自律的ではなく思考で解釈することで、音楽を個全体で共有する実験なのだ。
よってハーシュノイズは、効率をめざす。独自のシステムを構築するのはこのためだ…


…1時間弱、メルツバウの音楽を浴びることで、体はそれこそ対象のないマスターべーションのように快感を只管に貪り、自分の貧弱な脳は、それを現実と関連付けるために、妄想を広げていった。
唐突に、音が途切れ、ふたたびスクリーンが降りてきた。

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また1時間ほどDJによる時間が過ぎる。チルが自分には必要だと思ったが、むしろ状態を維持するような流れだった。
スクリーンが上がり始め、フロントをみて小さく驚きの声を出す。2バンド目は、またも意表をつかれ、ヴァーミリオン・サンズだった。2ドラム、2ギター、アトランシアの2弦ベース、キーボード/エフェクト、そしてフロントにフルート(!)。
グルのようなフルートに導かれ、空間の広さを感じさせるような楽器の自由なプレゼンスから、次第にベースとギターのリフが世界を支配し始め、気がつくと、猛烈なエネルギーをグループが放射していた。
言葉にする能力が自分に不足している。
それはたとえば、初期モーターヘッド/ホークウィンドのサウンドで、ジョン・ケールのいたころのヴェルベット・アンダーグラウンドをやるようなものであり、しかしこれはサイケデリアではない。サウンドの重心が過剰に低い。
トランス感覚ではなく、飛んでいくような感覚ではなく、高重力により地面に縛り付けられるような感覚。空気が水に、鉛になり、それが振動している。音楽で、羽が生えるなんて、それはリスナーによる欺瞞なのだ。そして、そのパルスが、加速していく。小刻みに体を震わせるように踊ることしかできないが、この衝動だけはどうしようもない。
永遠に続くかと思われたリフの嵐から、一転、メタルパーカッションの導入部から、アフリカ的というか(それはジェイミー・ミューアのパフォーマンスのような意味でのだが)、土俗的な打楽器的な応酬がおこり、唐突にポルナレフ氏(id:polnareff)のナレーションがフィーチャーされる。脳内のものを臓物で変換して、吐き出したようなスポークンワード。痺れる。吐き出したあと、同じ姿勢で硬直したまま暫しタバコをくゆらせるのをみて、沢田研二とか連想してた。
ドラムか、リズムギターのどちらかが、リズムをつかみ、オーディエンスが飛び散るのを繋ぎとめる一方、ほかのメンバーは、それこそ殺戮的に音を浴びせてくる。そして、再びシンプルなリフがすべてを支配するなか、フロントマンのダビーなヴォイス(たとえばプリンス・ファー・ライとか)が、天から降りてくるように響くのだ。なんと、かっこいいひとたちなのだろう。
いんちき宗教的なステージ構成はユーモア感覚ととらえてしまったが、彼らは余裕がある。しかしオーディエンスには余裕などなく、このような音楽が、この時代の日本にあって、それに触れることができてる多幸感につつまれる。

過言だろうか。疑うなら、観にいけばいいと思う。

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この2ステージで、自分はもうギブアップ。バーエリアに移動して、ECDとイリシットツボイが始まっても立ち上がることができなかった。この多幸感をキープに走るあたりが、小市民だ。貯金は大事。
だらーとしてたが、それでもECDの音は聴こえてくる。攻撃的というより妙にユーモラスなECDの言葉。それと、具象的なトラックを使いながら、それこそ会話してるような器用さを前面に感じさせ、しかし歪んだリズム感覚で決して滑らかにしないイリシット・ツボイのターンテーブルは楽しい。最後にちょっとだけ姿を観にフロアのほうへいき、その人懐こそうな表情をみて、なんか和む。阿呆陀羅経とか思い出した。